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浄土真宗親鸞会 親鸞学徒福井教室

浄土真宗親鸞会の学徒のブログです。 人生の目的(なぜ生きる)などについて語っていきたいと 思います。

正しく聞くことは難しい

今日は何の日でしょう?日曜日?テレビ座談会の日?それはそうなのですが、親鸞聖人のご命日ですよね!
しかも今年は親鸞聖人750回忌ということで、本屋に行けば、親鸞聖人のコーナーが出来ていたり、親鸞聖人関連の本がたくさん出ています。福井新聞では”親鸞なう”なる記事が一面にあり、真宗王国福井ならではだと思います。750年の時を超えて、なおたくさんの人に関心を持たれている親鸞聖人。しかし、どんな事を教えていかれたのか、知る人は稀です。今日、ある人が「寺で報恩講があり、そこで親鸞聖人の話があった」と言われるので、詳しく聞いてみると、親鸞聖人のご一代だけで、正信偈の意味や歎異鈔の解説など教えに関する話は無かったそうです。勉強会に来られる人で「正信偈の意味を知りたい」と言われる人は多いです。浄土真宗と言えば、日本で一番大きな仏教教団でありますが、親鸞聖人がどんなことを教えていかれたのか、知る人、説く人が余りに少ないのはなぜでしょうか?それは正しく理解する人がいないからではないでしょうか?
今日、テレビ座談会では歎異鈔について教えてもらました。歎異鈔には聞き誤りやすいところがたくさんあり、その一つに2章冒頭の親鸞聖人が命がけで訪ねてきた関東の同行に対して、何の労いの言葉もかけられず、いきなり「この親鸞のもとに訪ねてきた目的は『往生極楽の道』ひとつを聞く為だろう」という場面について詳しく教えてもらいました。これを読んだ人の中には「親鸞聖人は何て冷たい人だろう」と思う人があるそうです。他にもまだまだ聞き誤りやすいところはたくさんあるので、歎異鈔は「カミソリ聖教」と言われ、蓮如上人は「誰にでも見せてはならない」と言われています。

善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
(親鸞聖人)

親鸞聖人が「よくきくこともかたければ」、正しく聞くことは難しいと言われている通りです。
長い間、親鸞聖人の教えを聞いて来られた人で「今日、阿弥陀仏とお釈迦様の違いがハッキリとわかった」と毎回のように阿弥陀仏とお釈迦様の違いを聞いてこられたはずの人がこんな事を言われることもあるそうです。つい先ほど聞かせてもらったことで、ハッキリわかったはずなのに、家に帰ると何の話を聞いてきたのか、思い出せないということありませんか?聞いたようで聞いておらず、わかったようで人に話をしてみるとこれがなかなか難しいということはありませんか?なかなか正しく聞くというのは、一筋縄ではいなかい難しいことだということがわかります。だから、何度も同じ事を聞け、と言われるのでしょう。
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頑張ってどこに行く?

高校野球、春のセンバツの行進曲がSuperflyの

「My Best Of My Life」に決まったそうです。

歌詞が前向きで、Superflyの越智さんは「選手たちが『頑張るぞ』と

いう気持ちになればうれしい」とインタビューに答えています。

(詳しい記事はこちら

 「My Best Of My Life」には「ちぎれそうな心を背負って 

それでも明日を追いかけていく」「めぐり逢いの中で見つける 生きてく意味を

育ててみよう」と歌われていて、聞いていると「頑張るぞ!」という気持ちになり

ます。しかし、頑張るぞという気持ちになるのはいいですが、どこに向かって

頑張るのか、皆、明確になっているのでしょうか。こういう疑問を投げかける人は

稀ではないかと思います。先日のテレビ座談会でこのようなことを教えてもらいました。

 朝のラジオ体操から「皆さん、今日も1日、頑張っていきましょう」と言っています。

”頑張ること=良いこと”と私も皆さんも思っているのではないでしょうか。頑張ることも

大切ですが、どこに向かって頑張るのか。頑張る方向がハッキリしなければ、いくら

頑張っても意味がなくなることもあります。頑張って、スリのテクニックを上げる。

これだと、かえって悪くなり、頑張らない方がよかったですよね。大事なことは方向、

方針。これがハッキリせずにやみくもにやっても、無駄な苦労で終わってしまいます。

逆に方向がハッキリしたならば、すべての苦労が報われ、力が湧きあがってきます。

人生もまた然り。何のために生きるのか、生きる目的がハッキリとしたら、勉強も仕事も

健康管理もこの為だ、と全ての行為が意味を持ち、心から充実した人生になります。

 競争に負けても、人間関係に苦しんでも、「大目的を果たす為、乗り越えなければ」と

生きる力が出てきます。その人生の目的をハッキリ教えて下された方が親鸞聖人。

これからも親鸞聖人の御教えを学び、光に向かって進ませて頂きます。
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今日はテレビ座談会♪

今日は福井市と坂井市の各所でテレビ座談会が行われました。
「なぜ生きる」を通して、1日、質問に答えて下さいました。
「なぜ生きる」に、このような一節があります。

「平凡な生活のまどろみが破られ、
愕然とさせられたとき、
この問いに(何の為に生きるのか)
真剣な回答が迫られます」


平凡な生活のまどろみが破られる時とは一番はいよいよ死んでいく時です。それまではまだまだ死なんという思いがないでしょうか。肉親、兄弟、親戚、友達など身近な人の死に触れたら、否応なしに何の為に生きるのか、考えさせられますが、それは一過性ですぐにケロッとして、また、平凡な生活のまどろみに沈んでいきます。そして、いよいよ死ななければならないとなった時に慌てふためいても手遅れです。そうなる前に何とかして、仏法を真剣に聞くには無常観と罪悪観が大事だと教えてもらいました。仏法を聴聞していくと、深まっていく無常観と罪悪観。無常観とはすべてのものは常が無く続かないということですが、一番の無常は自分の死です。いつか死んでいかなくてはならない。これは絶対、確実なことです。親鸞聖人が9歳で出家されたのも、この無常観からでした。4歳でお父様を亡くされ、8歳でお母様を亡くされ、今度死ぬのは俺の番だ。死んだらどうなるのだろう、と無常を見つめられて、出家なさいました。
 無常を観ずるは菩提心の一なり
と言った人もいます。無常を見つめるのは本当の幸せになる第一歩、ということです。死を見つめるのはいたずらに暗く沈むことではありません。人生の一瞬一瞬を太陽よりも明るくする第一歩なのです。
 罪悪観は自己の罪悪を見つめること。悪いことをしたら、悪い結果が返ってくる。因果の道理で教えてもらいますが、因果の道理を知らされ、己の罪悪を知らされれば知らされるほど、助かる道はなかろうか、と真剣に探し求めます。
 無常と罪悪、この二つが深く見つめるほど、聞法に拍車がかかり、真剣に聞かずにおれなくなります。そして、人生究極の目的を果たすところまで進むことができるのです。
 1日1日があっと言う間に過ぎていきます。私は何の為に生きているのかを忘れず、1座でも多く聞き求めたいと思います。
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宝くじよりも

先日、勉強会に来られた人達がこんな話をされていました。

とある人が1泊2日で三重に旅行に行かれたそうです。その目的は宝くじ。どうやら

三重によく当たりが出る宝くじの売り場があるそうで、そこに行ってこられたとのこと。

別の人が「宝くじなんて、当たるとは思えないけど、うちの主人は買わなければ当たらん

だろう、と言うの。それは買わなければ当たらないけど、当たる人は10枚、30枚でも

買ったら当たるし、当たらない人は300枚、買っても当たらない。しかも、宝くじを

買ったら、当たったお金でこれ買おう、旅行行こうと算段していて、もう当たった気で

いるの。」まさに宝くじは自分に当たって、不幸や災難は他人に当たると思う典型だと

思いました。同時に、私にもそんな心はないか、と反省しました。それにしても、

宝くじを買いにわざわざ三重まで行かれるということはそれだけ”三重の宝くじ”に

価値があると思ってのことでしょう。親鸞聖人の教えは3億円の宝くじぐらいでない、

すべての人が本当の幸せになれる道、一つを教えられています。だから、仏法を聞けると

いうのは3億円の宝くじが当たったぐらいではない、大変なことなのです。

 だから、お釈迦様は

「人身受け難し今すでに受く。仏法聞き難し今すでに聞く。
  この身今生に向かって度せずんば、
     更にいずれの生に向かってか、
        この身を度せん」


と言われています。親鸞聖人は

 「昿劫多生のあいだにも 
  出離の強縁しらざりき 
  本師源空いまさずは 
  このたびむなしくすぎなまし」


 「微塵劫を超過すれども 仏願力に帰し難く」

 「噫、弘誓の強縁は多生にもあいがたく」

と言われています。いずれのお言葉も、果てしない過去から果てしない未来に

至るまで、ないことが今、あった、という阿弥陀仏にすくい摂られられた喜びの

お言葉です。志望校に受かった時でさえ、飛び上がって喜んでいる人がいます。

宝くじが当たって喜ぶ人、オリンピックで金メダルを取って喜ぶ人、サッカーの

W杯で優勝して喜ぶ人など、この世の中に喜ぶ人はいろいろありますが、仏教を

聞き、阿弥陀仏に救い摂られた喜びはこのような喜びの比ではありません。

果てしない時間の流れの中でないことがあったのですから。

 今月の親鸞会のカレンダーのお言葉は

みな人よ 手足を運べ 法の山 
 空しき帰り 千載に悔ゆ


です。

 生きている今、悔いの残らぬよう、日々、全力で臨みたいと思います。
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今日は電話座談会でした!

今日は電話座談会がありました!

歎異鈔1章について、「歎異鈔をひらく」を通していろいろな質問に答えて頂きました。

その中で浄土真宗が衰退の一途を辿る原因と言われる「弥陀の本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」について教えて頂き、心に強く残りました。
 ちょっと聞くと、念仏さえ称えていれば、良いことしなくてよい、どんな悪いことをしても阿弥陀様は助けて下さる、と受け取ってしまいます。親鸞聖人の教えを知れば、とんでもない誤解だとわかりますし、因果の道理から言っても、そんなことあるはずありません。良いことをしなければ良い結果は返ってきませんし、悪いことをすれば、その報いを受けなければなりません。親鸞聖人もそれを戒めておられます。何か所かありますが、今は1つだけ。

われ往生すべければとて、すまじきことをもし、思うことまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず。
【末灯鈔】

「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してなならないことをしたり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあってはならないことだ。



 歎異鈔で言われる善とか悪はあくまで往生のこと。弥陀の本願を信じ、救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということです。同時にいずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし、と知らされた親鸞聖人に恐れる悪はないでしょう。すべては往生についての善悪。阿弥陀仏に救われても、働かなければお金は得られませんし、窃盗をすれば、捕まって苦しみます。勉強しなければ、行きたい大学に行けません。
 ここを聞き誤ると、大変なことになってしまいます。



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